今回は、「10代の教祖」、「若者の代弁者」と呼ばれ、26歳で謎の死を遂げた尾崎豊の死因についてまとめていきます。
26歳での突然の死
1992年4月25日、尾崎豊は、自宅近くで、全裸で傷だらけになっているところを発見されます。
住民に発見され、病院へ運ばれますが、その後、自宅に戻ります。
しかし、その直後、容態が急変し、この世を去ってしまいました。
26歳で、この世を去った尾崎豊の追悼式には、3万7500人ものファンが訪れ、そのあまりに早すぎる死を悼みました。
警察から発表された尾崎豊の死因
警察から発表された死因は、肺水腫
肺水腫とは、肺の中に水が溜まり、呼吸不全となってしまう病気です。
(肺水腫となったのは、極度の飲酒と書かれている記事もあり、致死量を超える覚せい剤を服用したという記事もありました。)
ただ、彼の遺体には、たくさんのあざや傷跡が残っており、彼が殴られて、殺されたという他殺説も浮上しましたが、警察は、事件性を否定しています。
尾崎豊の死因をめぐるその後の経緯
しかし、不可解な死因をめぐり、尾崎豊が亡くなった2年後には、尾崎豊の父親が再捜査を求める署名が10万名近く集まりました。
しかし、警察に提出されましたが警察側は改めて、事件性を否定し、受理しませんでした。
1999年には、写真週刊誌のフライデーで尾崎豊が当時、病院で尾崎豊が蘇生処置を受ける写真が公開されました。
さらに、誰かに殴られ、膨れ上がった右目や、全身に刻まれたたくさんの傷が写った写真に多くのがファンが衝撃を受けました。
(その写真は、検索したら簡単に出て来るので、ここでは掲載しません)
また、それきっかけに尾崎豊の妻が知人が彼に覚せい剤を服用させたという記事も出たりしましたが、その記事を書いた記者は、訴えられて、敗訴しています。
また、2011年の文芸春秋の12月号で、尾崎豊の残した遺書が公開されました。
(遺書が、その時まで、公開されなかったのは、息子の裕哉君が、物心がつくまでは公開しないで欲しいと尾崎豊の妻から要望があったからです)
遺書は2通に分かれ、その内の1通には尾崎の血判が押されていました。
そこには、彼の死に対する願望と妻と息子に対する愛情が綴られています。
また、その記事の中では、尾崎豊が、死を迎える20日前に夫人に対して、心中をしようと願いましたが、息子がいるために出来ないと夫人が答えたところ、その場でへたりこんだというエピソードも書かれていました。
この遺書の全文公開を担当したジャーナリストの加賀孝英氏は、記事の中で、他殺説を否定、尾崎豊の死因は自殺であったと語っています。
ただ、その遺書は大反響を呼ぶ一方、それでも、他殺説を主張する人も依然としています。
様々な死因説が流れ、未だに謎に満ちた尾崎豊の死因を知っているのは、やはり尾崎豊本人だけなのかもしれません。
私も、尾崎豊が生前、活躍していた頃から、彼の音楽が好きで聞いていました。
でも、その時よりも、今の方が、よく聴いているかもしれません。
彼が持つあまりにも真剣な生き方、強く生きなければと思いながら、今にも壊れてしまいそうな微妙な心のバランスを歌の節々に感じ、その溢れんばかりの熱情が、彼の死期を早めてしまったのかなとも感じています。
今でも褪せることのない数々の名曲を残した尾崎豊のご冥福を改めてお祈りいたします。
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